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何も思い出せないでいた…。 「何も…」という言葉は適切ではないかもしれない。とりあえず思い出せるのは、自分の事と生活するにあたって不自由しない程度の事。それと、彼女の「カナエ」という名前くらいだ。 ただ、目覚めただけだった。ひどく耳鳴りがしたが、さほど気にもしなかった。異変に気づいたのは、その後だ。 僕は毎朝、午前6時に起きているらしく、そのアラームで目覚めた。会社に行こうと、まず顔を洗いにシャンプードレッサーに向かった。鏡に向かって自分の顔をマジマジと見た。まるで始めて会う人のように何かぎこちない感じを受けた。次に歯を磨こうとして歯ブラシを取ろうとしたが歯ブラシの場所が分からなかった。まぁ小さいシャンプードレッサーなだけに扉も少なく探すといっても限りがあったので歯ブラシはすぐに見つかったが・・・。 身支度を終え、家を出ようと玄関で靴を履きかけた時にふと考えた。 「僕は何処の会社に行こうとしているのだ?」 身支度をしている迄はいつもより多少時間がかかる程度であったが、そこ迄、何も思わなかったが、 記憶が飛んでいる・・・。 いつもの習慣で、身支度は出来たのかもしれないが、会社の名前も場所も会社の何もかもがわからない。とりあえず部屋の窓側にあるベッドに腰掛け僕は頭を抱えて、分かっている事を整理しようと思った。 今、僕はスーツを着ている。という事は何処かしらの会社員であり、営業もしくは販売員などの人と接する仕事なはずだ。 「鞄だっ」 僕は慌てて、玄関に置いてきた鞄を取りに行った。鞄をベッドのところに戻り、開けてみる。何か手がかりになるものはないか、必死に鞄の中を探った。鞄の中には沢山の見積書とエッセイの文庫本一冊があった。文庫本には三分の一程の所迄、読んでいるらしく深緑色のしおりが挟んであった。その文庫本をベッドに置き、次に見積書を手に取って見た。見積書には汚い字でそれぞれの商品単価と合計の金額があるだけで自分の会社名も、相手の会社名も記載されてはいなかった。それどころか奇妙な事に、その見積書の商品を書く欄だけが、綺麗に切り取られている。しかも、かなり丁寧に切り取られているのである。僕はより一層、頭を抱えた。僕は何かの事件にでも関わっているのではないかとも思った。しかし、いつものように僕はいつもの場所で寝ているではないか、いったいどういう事なのだ。 結局、鞄にはなんの手かがりもなく、ただ奇怪さが増しただけで、僕の頭の中は混乱しまくった。 まだ、耳鳴りはおさまらない。 窓の外を見ながら僕はふとタバコに火をつけた。僕は、胸一杯にタバコの煙を吸い込み、そして、一気に吐き出した。二、三回吸っただけのタバコを僕はもみ消し、おもむろにベッドに横になった。僕は、天井を呆然と見つめた。ベッドに横になり左側に小さな窓がある。その窓の方へと寝返りをうった。窓の外をガラス越しに見つめながら途方に暮れた、左胸に、なにかがあたり、違和感があったが窓の方を見つづけた。 「何がなんなんだ……」 僕は呟きながら、さっきからの左胸の違和感がどうも気になる。渋々、僕は起きあがり、スーツの左内ポケットをまさぐった。違和感の元は携帯電話だった。 早速、僕はアドレスを見てみたが、誰がどのような関係なのか、さっぱり思い出せない。約二十件程見たときに間違いなく覚えている名前が小さなディスプレイに表示された。「野々山 カナエ」 僕の彼女だ。彼女というのは明確に覚えている。だか、それ以上の事は何もわからない。とにかく僕は弾む息を殺し電話をかけた。 プルルルルッ、プルルルルッ。 そのコールの音を右の耳で聞き、四回目が鳴るか鳴らないかの時に自分の顔の前へ携帯電話を持ってきて、その携帯電話を見つめた。まだ、微かにコール音が聞こえる。そして、僕は電話を切った。なにか、僕は怖くなってしまったのだ。もし、電話にでなかったら…。もし、僕はとてつもない事をやらかしていて真実を聞かされたら…。いろんな事が頭を巡った。そして、なによりも僕が記憶している人間がこのカナエ、ただ独りなのだ。最後の綱だと思うと怖くて怖くてたまらなくなったのだ。 5分も経っただろうか、僕はまだ、携帯電話を見つめていた。 「動かないと始まらない」 僕はまるで呪文を自分自身に唱えるかのように呟いた。 息を飲む。 携帯電話は、すべてを知り、僕をあざ笑うかのように、冷たくコールを響かせた。十回、十五回、コールは鳴り続ける。 「頼む出てくれっ」 三十回程、鳴らしたが結局、彼女は出なかった。僕は涙が溢れてくるのをグッと堪えた。とてつもない不安が僕を襲っていた。その不安から、今、僕の高鳴る鼓動の奥底で少しづつ少しづつ恐怖に変っていくのが確かに分かった。分かっていても自分ではその変化を止める事も何かに変える事さえできなかった。その歯がゆさがまた、僕の悲しみをあおった。 それは、時間を止められない歯がゆさや、老いを止められない寂しさにも何処か似ていた。 どれくらい時間が過ぎたのだろう。僕は、泣き尽くし脱力感に身を委ねていた。 「こうしてもいられない」 絶望に打ち振るわせられながら、僕はスーツ姿のまま自分の部屋を出た。行き先はカナエの部屋だ。まだ、寝ているだけで電話の音にも気づかなかっただけかもしれない。留守にしても、カナエが帰る迄部屋の前で待つつもりでいた。足早に腐りかけた鉄の階段を駆け下り、壁に立てかけてある気だるそうな自分の自転車に乗りこんだ。 「カナエの部屋が分かるだろうか…」 今はその不安さだけが頭の中にあった。思いだそうとしても何も思いだせない、だが僕はこの体が自然に覚えているような気がしたのだ。そう、朝、身支度をした時のように、ペダルを扱げば僕の脳ではなく僕の体が自然にカナエの部屋迄、連れて行ってくれる。そんな気がしているだけだ。アパートは南の方角にゆるい坂道になっている。その坂道を突き当たると線路が通っていて、Tの字の交差点なのだ。 まず、僕の体はその坂道をゆっくりと下って行った。そして、Tの字の交差点に差し掛かると、なんのためらいもなく、体を右に傾け自転車の舵をとり右折した。今度はその道を真っ直ぐ進んでいる。僕は、ただ、ペダルを扱ぐ事だけに集中した。いつしかペダルを扱ぐ足に、かなりの力が加わっていた。暫くすると僕は小さな商店街に出た。その商店街の半ばぐらいで次の異変に気づいた。 姿がないのである。町中の人の姿が…。ただ、声だけは確かに聞こえるのである。僕は、吐き気すら覚えた。道行く人の声だけが聞こえて姿はまったく見えない。影すらもである。僕は、両目まぶたを力任せに擦ったが、やはり見えない。 「あら健ちゃん、今日は出勤遅いじゃないのっ」 「遅刻じゃないのっ?、独り暮らしはだめねぇ」 「早く、お嫁さん貰いなさいよっ」 突然、前方から僕に声を掛けられた。度肝を抜かれた。どうやら姿が見えないのは僕だけらしい。親しく声を掛けて来る事と話しの内容から僕をかなり知っているのだろう。しかし、僕には、そういう記憶すらない。誰の声という記憶だけでも残っていれば、この事情や僕の回りの事を聞き出せるのに、誰が相手で僕とどういう関係すら分からない人間に何をどう話したらいいものか…。とりあえず僕は、 「はぁ」 と気の無い返事をした。 「いやぁねぇ健ちゃん、私は、こっちにいるのよっ」 僕は慌てて、 「急いでますので」 と言って、その場を去った。 僕は、また、泣き出しそうになったが、懸命にペダルをこいだ。暫くすると小高い丘の上に二階建てのアパートが見えた。なにか見覚えがあった。確かではない。おぼろげに見たような気がするだけだ。しかし、この状況の中で、こんな感じを受けた事は初めてだ。きっとあそこが、カナエの家に違いない。そして僕は、ペダルを扱ぐ足をもっと速めた。 アパートは、薄いピンクのペンキで壁を塗ってあり一見、小綺麗そうだがかなり前の建物らしく、いたる所のコンクリートにヒビが入りこんでいた。僕はそのアパートの脇に自転車を置き足早に階段を駆け登った。階段から一つ部屋があり、奥にもう一つ部屋があった。僕の体は奥の部屋へと導いた。 玄関のドアの横の窓には鉄格子がしてあり、その鉄格子に二本の赤と紺色に小さい花の絵が描いてある傘が掛けてある。この傘も見覚えがある。その傘の隣りに表札があった。 「KANAE NONOYAMA」 確かに、僕の彼女の家だ。僕は慌ててドアを叩いた。 「俺だ、おい、カナエ開けてくれ」 呼び鈴など押している暇はなかった。僕はひたすら、彼女の名前を呼び続けた。すると、部屋の奥の方から玄関の方へ来る足音がした。僕は呼吸を整え、息を飲み、さっきよりも少し小さな声で言った。 「カナエ、助けてくれっ」 「俺だよ聞こえないのかっ」 そして、そのドアは静かに静かに、まるで子供が隠れん坊でもして押し入れの中から顔を覗かせて鬼が来ないか見るかのようにそっと開いた。開いたと同時にカナエの顔が見えた。やった!と思った瞬間、彼女が奇妙な事を口にした。 「健ちゃんだよね?」 僕は、その意味がどういう意味なのか検討もつかなかったが彼女だけは姿が見える事に僕は喜び、泣き叫んだ。 「ありがとうカナエ。ありがとう」 僕は何度も何度もカナエに礼を言い続けた。そして彼女は、 「とにかく中に入って…」 と、呟いた。中に入り部屋の中心に置かれているガラステーブルのところに向かい合わせにして僕らは座った。彼女の背中の方にある窓から朝陽が差し込み、彼女を包みこんで、幻想的なシルエットとして彼女は写って見えた。 「カナエ以外の姿が見えないんだ。」 「ただ、声だけは聞こえる」 「本当なんだ信じてくれ」 そんな話しを僕は延々と続けた。僕は必死だった。この状況を何とかしたいという気持ちもあったが、それよりもカナエに理解してほしかった。僕は今迄、生きてきた中でこんなにも熱弁したことはない。 カナエは驚く様子もなく、ただ、俯いて小さく頷くだけだ。分かってもらえないのか?そんな不安をよそにカナエの態度は変らない。 「健ちゃん……」 僕の話しの途中でカナエが話しかけてきた。 「大丈夫、信じてる。信じてるから…」 「健ちゃんがウソつくはずないから…」 「それに……」 と言ったきり彼女は口を塞いだ。そして両手で顔を押さえ泣き始めた。 「どうしたんだ、それに、なんだよ!」 「話さないとわかんないよ」 カナエは泣きじゃくり、肩をゆらしながら泣いた。慰めても泣き止まない。どんな言葉をかけてもだめだった。 突然カナエが顔を上げた。腫らした目で僕を見つめている。 「私には…」 「私には、健ちゃんも見えないの……」 その言葉に僕は唖然とした。この事態は僕だけでなくカナエに迄、起きていた。しかも僕にはただ唯一カナエの存在があるのに、カナエにはその存在がない…。誰一人も見えないらしい。僕は力なくカナエに言った。 「でも、僕はここにいるよ」 「いつでもカナエの側だ」 その言葉を聞くか聞かないか、同時にカナエはまた、泣きじゃくった。その場に泣き崩れた。僕はカナエを引き寄せ、何度も何度もカナエの頭を撫でた。カナエは狂おしく僕の胸で夕方近く迄、泣き続けた。 そんな出来事があってから、僕らは一緒に暮らすようになった。もちろん医者にも行ったが治療どころか、精神病院を紹介されたり、冷やかしはやめてくれと、門前払いだった。 ただ、この状況に僕が負けずに行動できたのも、カナエの存在であった。そのものの存在も大きかったが、それ以上に僕よりも辛いであろう人間が僕の愛しき人であった事だ。助けたい一心だけだ。そのことだけで今は頭が一杯だ。せめて僕の姿だけでも…と願う。そして、部屋に閉じ込まらなく、行動した結果、一つの発見があった。それは、ある雨上がりの日、二人で散歩に出たときに発見したのだ。散歩の途中カナエが泣いて言った。 「健ちゃんが見える」 カナエの指先には、僕等の足元にある、車のタイヤ程の水溜りだった。その水溜りには僕の姿がハッキリと見えるというのだ。あわてて僕等は他の水溜りにも行って試してみたが、やはり僕の姿が見えるらしい。カナエには、水溜り越しにだけ僕の姿が見えた。それからは、雨が降ると必ず二人で散歩に出かけるようになった。しかし、不思議な事に、ただ水をまいただけの水溜りには、僕の姿は見えなく、必ず雨上がりの水溜りでしか、だめらしいのだ。それと、もう一つ試してみたのだが、僕とカナエ、二人共、他の人は水溜り越しでも見えないのだ。 そして、今日も雨が降り、午後から陽が顔を出してきた。習慣になった散歩の日だ。 カナエが 「また、健ちゃんに会えるねっ」 と言った。昼食をとって僕等は、さっそく散歩にでた。 カナエが僕の手を引っ張って行く。 「健ちゃん健ちゃん、今日は、あの大きな水溜りで、お話しようよ」 まるで水遊びを楽しむ幼稚園児みたいにはしゃぎながら、僕の手を引くカナエの姿があった。 「うん、そうしよう」 僕等は、その水溜りの渕にしゃがみこんだ。そしていろんな話しをした。きっと回りの通行人達には、こっけいに写っているのだろう。しかし僕等には、そんな、顔を顰めて歩く通行人達の姿は誰一人、見えないのだ。 そう、この地球は今、僕等二人だけのものだ。 そんな僕等の話してる今日の水溜りには、クッキリと僕とカナエ、そしてその後ろに抜けるような青空と大きな大きな虹が掛かっていた……。
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